“あなたを救う”教えなどない 「カルトか否か」見抜く方法とは【大竹稽】
「なぜカルトにハマるのか?」救済と信仰を問う【第3回】
◆「あなたを救う」教えなどない
さて、今回のカルト問題はこれまでとは随分、趣が違っています。批判の矛先は、政治家たちへも向けられています。しかし、「なぜカルトにハマってしまうのか」は、本来、宗教界への問題提起であるはずです。信者や信者を守る社会システムではなく、宗教者たちの姿勢が問題とならなければなりません。
わたしには、日頃からお世話になっている信頼する僧侶たちがいます。彼らには感謝をしつつ、敢えて、宗教界に具申いたしましょう。
教えによって信じさせようとしていませんか? それはカルト的な姿勢です。
行いにこそ信があるのです。言葉ではなく、日々の行い、例えるなら普段着の日常にこそ、人々を信へと導く土台があるのです。
信徒としては、教えではなく教え導こうとしている人の行いに注目しましょう。
特段に宗教者を相手としなくても、人として当たり前の戒めがありますよね。
「有言実行」「言行一致」
言葉にしたら実行しなくてはいけません。言葉を発しただけで行いにならないのは、他人も自分も裏切ることです。有言実行だからこそ、人は信じるのです。信仰だけが信ではありません。信頼も自信もその一つでしょう。
一方で、言行不一致・有言不実行の人もいます。これは言語道断。舌先三寸口先だけの人を信じることができるでしょうか?
「宗教者には言行不一致が許される」はずありませんよね?
「あなたを救う」は、必ず自家撞着に陥ります。他人の人生の代わりはできないのですから。ここに信仰は生まれません。
「あなたを救う」教えなどない。これこそ本来の宗教です。「信仰すればしあわせになれる、苦しみから解放される」という依存型の教えはまやかしです。宗教者は常に、「答えはあなたが持っています」、と信者を突き放さなければならないのです。しかし、救う教えがないから、わたしたちは「手探りで前進できる」のです。このような人たちの信仰こそ、本物と言えるでしょう。
(第4回へ つづく)
文:大竹稽
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